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ツーリング・マイ・ロード



2006 走り始め 函館一人旅

      2006年4月、春の兆しがチラホラの北海道、南の玄関口「函館」を旅しました。
      今年初めてのツーリング。寒い中にも、半年間のブランクを取り戻すかのように滝川
      を旅たちました。出発直前アクシデント発生!左のフェンダーがポッキリ折れ、近く
      の板金屋さんにお世話になる。なんとか溶接完了2時間遅れで出発。


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一路函館へ 喜茂別付近

2時間遅れで、一路函館へ・・・中山峠を無事クリヤーして喜茂別付近で休憩。北海道の富士山(羊蹄山)の姿がぼんやりと・・・春霞のせいか?

蝦夷富士の里『きもべつ町』は、札幌市と隣接する農業の町で、北海道南西部、後志管内の羊蹄山東部(蝦夷富士)の麓にあり、総面積189.5k㎡、森林が77%を占める緑豊かな農村地域パラ~。また、清流日本一と言われる尻別川の上流に位置して『水の郷』にも指定された自然の恵みが豊かな地域で、昼と夜の寒暖の差が激しい気候を活かして育てられた、じゃがいも、アスパラガスは、古くから『きもべつ町』の特産品と して知られているパラ~。特にホワイトアスパラは、クレードル興農の缶詰として知名度が高くて、道内外の方に愛され高級食材として利用されているパラ~。さらに、道内の主要幹線の国道230号線と国道276号線が交差する、人と人とをつなぐ『道の町』でもあり、札幌、千歳から後志の観光地と道南の観光地を結ぶ『旅』の分岐点となっているパラ~。『きもべつ町』を、これからもヨロパラ~!

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ライダーハウス(ミートハウス)函館

夕方、少し前に無事今夜の宿ミートハウスに到着。今日の仲間は二人、ここのご主人と4人で持ち寄ったおかずで一献。ライダーハウスはこれがいい。

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持ち寄ったおかず

一人はこれから、樺太に渡る予定らしく、新潟の人でした。何度も樺太に走ったらしく、手慣れた手つきでロシア料理を作ってくれた。(旨い)

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案内板を頼りに

これから、案内板を頼りに函館市内を巡ります。まずは、宿から近くから歩いて巡ります。今回は思い三脚を担いで名所巡りです。

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旧ロシア領事館

函館は小樽に似て坂の多いところです。特に函館山側はこんなにも傾斜があります。三脚で設置をしてもどうしてもゆがんでします。

最初に訪れた旧函館区公会堂

足が痛くなるくらい、歩きました。最初に訪れた旧函館区公会堂は、綺麗で美しい建物でした。異国情緒が残る函館、いいところです。ロシア風の教会が多く、夜になるとライトアップされて一段と魅力を増します。

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th_IMG_9227.JPG.jpgth_IMG_9237.JPG.jpg旧函館区公会堂th_IMG_9241.JPG.jpg

チャミーグリーンの坂

有名な建物がいっぱい

テレビのコマーシャルで、おじいちゃんとおばあちゃんが手をつないでスキップする場面がありますが、八幡坂です。降って見えるのは函館港、このように至る所になんとか坂が一杯あります。

函館ハリストス正教会

ここも良く、放映される場所、お正月近くになると、ここの鐘が鳴らされるところがテレビに流される。古く良き場所として函館市民に愛されてます。

函館ハリストス正教会は、1858年(安政5年)、日本で最初のロシア領事館が箱館に置かれたことに端を発する。1859年(安政6年)、初代ロシア領事、ゴシュケヴィツチは、現在の教会所在地にロシア領事館の敷地を確保。その附属聖堂として1860年(安政7年)、日本で最初の正教会の聖堂「主の復活聖堂」が建てられた。1861年(文久元年)、管轄司祭ワシイリイ・マホフ神父の後任として、修道司祭ニコライ・カサートキンが来函(1912年、東京神田にて永眠。1970年、「亜使徒日本の大主教聖ニコライ」として列聖される)、函館を拠点とした正教の伝道が始まる。1868年(慶応4年)、函館において最初の日本人三名の洗礼が行われた(パウエル澤辺琢磨、イオアン酒井篤礼、イアコフ浦野大蔵)。1882年(明治15年)、管轄司祭として初めて日本人の司祭ティト小松韜蔵が着任し、次第に日本の正教会として根付いていく。1907年(明治40年)の函館大火で焼失した初代聖堂に代わって、1916年(大正5年)、現在の聖堂が建てられた。1983年(昭和58年)、聖堂が国の重要文化財に指定される。1996年(平成8年)、鐘楼の鐘の音が環境庁より「日本の音風景百選」に認定される。

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th_IMG_9249.JPG.jpgth_IMG_9250.JPG.jpgth_IMG_9251.JPG.jpg
th_IMG_9261.JPG.jpgth_IMG_9259.JPG.jpgth_IMG_9267.JPG.jpg

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函館駅周辺

旧函館駅跡地

th_IMG_9268.JPG.jpgもとの駅が立っていた場所です。


新しい駅の陰にひっそりと立っていました駅の後表示。新しい駅に目が奪われてましたが、ここにも古い函館がありました。


ここでお昼を

th_IMG_9269.JPG.jpg豊富な海の幸


北海道を代表する魚「ホッケ」脂が乗り身が厚いホッケは本当に旨い。ホッケ定食で腹ごしらえ。


駅横にある食堂街

th_IMG_9270.JPG.jpg食堂街


どの店に入ろうか迷ってしますほどお店がズラリ・・・大勢の観光客がそれぞれのおめあての店に入っていきます。お昼時はドコモ満員。少し時間をずらすと、意外にゆっくりできる。


五稜郭

函館市電を乗り継ぎ、桜の名所五稜郭にやってきました。市電乗り放題1000円は安い。バイクを置いて徒歩と電車で回る函館巡りはいいもんです。
五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に江戸幕府により蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)郊外に建造された稜堡式の城郭である。同時期に築城された長野県佐久市の龍岡城も稜堡式城郭であり「五稜郭」と呼ばれるが、単に「五稜郭」といえば函館の城郭とする場合も多い。予算書時点から五稜郭の名称は用いられていたが、築造中は、亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)または亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)とも呼ばれた。元は湿地でネコヤナギが多く生えていた土地であることから、柳野城(やなぎのじょう)の別名を持つ。五稜郭は箱館開港時に函館山の麓に置かれた箱館奉行所の移転先として築造された。しかし、1866年(慶応2年)の完成からわずか2年後に幕府が崩壊、短期間箱館府が使用した後、箱館戦争で旧幕府軍に占領され、その本拠となった。明治に入ると郭内の建物は1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用された。その後、1914年(大正3年)から五稜郭公園として一般開放され、以来、函館市民の憩いの場とともに函館を代表する観光地となっている。国の特別史跡に指定され、「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されている。なお五稜郭は文化庁所管の国有財産であり、函館市が貸与を受け、函館市住宅都市施設公社(指定管理者)が管理している。

th_IMG_9272.JPG.jpg五稜郭タワー 
th_IMG_9282.JPG.jpgタワーの展望台から下が覗ける th_IMG_9280.JPG.jpgタワーから見た五稜郭 th_IMG_9283.JPG.jpg土方歳三の銅像、いい男である。

五稜郭周辺

新撰組副長・土方歳三と言えば隊士から「鬼の副長」と恐れられていたと言いますが、新撰組隊士であった中島登が残した戦友絵姿には「赤子が母親を慕うように」慕われていた、と記されています。土方の率いる部隊は二股口(現、北斗市台場山)を守り、激戦を強いられながらも連戦連勝。しかし数に勝る政府軍に他の部隊が次々と敗れ、退路を断たれる可能性が出たため五稜郭へと引き返します。5月11日、明治政府軍による箱館への総攻撃が行われ、土方歳三は一ノ木関門(現、函館市若松町付近)で敵兵に狙撃され戦死。5月18日、榎本武揚が明治政府軍に降伏。蝦夷共和国はわずか半年ほどで終焉を迎えます。戊辰戦争では軍艦に搭載されたものを含め、大砲が勝敗に大きな影響を与えていました。箱館戦争で使用された大砲が後に発掘され、五稜郭内に展示されています。

th_IMG_9287.JPG.jpg函館戦争時に使用された大砲

th_IMG_9289.JPG.jpg周辺では花見客めあての屋台が出没th_IMG_9290.JPG.jpgイカめしとホタテの醤油焼き、いただきましたth_IMG_9296.JPG.jpg五稜郭入り口看板

函館山周辺

夕方になり、函館山からの夜景を楽しもうとロープウエーで登ったのですが、あいにくの雲が出てきて、今夜は無理。明日に賭けることに。周辺には高田屋嘉平衛の銅像や谷地頭温泉があります。私は函館に来るとほぼこの温泉につかり体を癒します。何しろ料金が異常に安い。

谷地頭温泉
谷地頭温泉は、函館山の麓、立待岬などの観光名所にほど近いところにあり、函館を代表する温泉のひとつです。1953(昭和28)年に開業した函館市営谷地頭温泉が前身で、2013(平成25)年に民営化され、リニューアルオープンしました。
市電の谷地頭電停から近く、アクセスのいい場所にあることから、温泉に親しみを持ち、電車に乗って長く通い続けている常連の方も多いそう。函館山散策の後に立ち寄って、汗を流すのにも便利です。また、朝早くから営業しているので、JRの寝台列車で到着後、路面電車に乗り継ぎ、ひと風呂浴びてから市内観光に出かける......といったアクティブな観光客のかたもよくいらっしゃるとか。いつでも気軽に温泉入浴を楽しめるよう、入口近くにはトランクなどが入る大型ロッカーが設けられていたり、タオルやシャンプー、コンディショナー、ボディソープ、ブラシなどがセットになった「手ぶらセット(500円)」が販売されています。
1階には休憩所や食堂があり、入浴後にのんびりとくつろげるようになっています。食堂では、小腹がすいたなあといった時にちょうどいい蕎麦やラーメンなどの麺類を中心に、軽くつまめる料理が300円~600円台と、リーズナブルな価格で用意されています。自然豊かな立地に、地元密着の古きよき雰囲気が味わえる、おすすめの温泉施設です。エリア
元町・函館山エリア所在地
第2・4火曜日料金大人420円、子供(6歳以上12歳未満)140円、幼児(3歳以上から6歳未満)70円、乳幼児(3歳未満)無料アクセス市電 「谷地頭」電停 下車 徒歩5分駐車場有(101台)

th_IMG_9298.JPG.jpg高田屋嘉平衛の銅像
th_IMG_9307.JPG.jpg市営谷地頭温泉th_IMG_9304.JPG.jpgth_IMG_9310.JPG.jpg

夜の函館

函館山を諦め

思わぬ雲の出現で、函館山からの眺望は諦め、明日に賭けることとしました。帰り道、三脚なしで夜景に挑戦・・・やはり夜景は三脚なしではちょっと無理、なんとか写ったものをアップしました。明日は恵山方面に行って、夜は函館山からの夜景を狙います。

函館奉行所

1864年の建築当時とまったく同じ場所に復元建築することで、国の特別史跡の中の遺跡としての価値を持たせるため、遺構の発掘調査、当時の図面や写真、文献を読み解いて、完成まで4年の歳月と、総工費28億円をかけた。建物は御殿様式の木造で高さは16.5m、苦心した屋根瓦の色の出し具合は必見だ。建物は4つのゾーンに分けて見学できる。奉行の執務室や大広間を幕末当時の姿に復元した「再現」、箱館開港による奉行所の誕生から五稜郭の築城、箱館戦争に至る「歴史発見」、復元工事に携わった宮大工の技を紹介する「映像シアター」、構想から完成まで20年を要した復元のプロジェクトを過程を追って紹介する「建築復元」。廊下までタタミ敷きの館内は木の香りが芳しく、日本の古建築の美しさが見どころだ。2010年7月のオープンから50日間で入館者50万人を突破し、函館の新しい観光スポットとして注目されている。

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th_IMG_9326.JPG.jpgth_IMG_9329.JPG.jpgth_IMG_9337.JPG.jpg
th_IMG_9344.JPG.jpgth_IMG_9352.JPG.jpgth_IMG_9336.JPG.jpg

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恵山・鹿部

翌日、天気もよく函館市内を離れ、恵山・駒ヶ岳まで足を伸ばしてみることに・・・椴法華には直接行けず恵山をぐるっと迂回するコースで駒ヶ岳を後ろ側からみることに。途中鹿部の温泉、間欠泉をみることに。

恵山(えさん)は、北海道函館市にある標高618 mの気象庁による常時観測対象の活火山。渡島半島の東南端で太平洋に突き出すように位置する。山頂には三等三角点(点名「恵山」)が設置されている。恵山道立自然公園に指定されているほか、新日本百名山、北海道百名山、北海道の百名山に選定されている。
th_IMG_9353.JPG.jpg恵山に向う途中、昆布取りに遭遇

th_IMG_9357.JPG.jpg活火山恵山です。th_IMG_9360.JPG.jpg昆布ほしth_IMG_9363.JPG.jpg鹿部の間欠泉。有料になってました。

いよいよ函館山へ

駒ヶ岳

恵山を見て、一路駒ヶ岳に・・・今日は裏側(鹿部)方向から駒ヶ岳を目指します。

山頂部には直径約2 kmの火口原があり、西の剣ヶ峯、北の砂原岳、南の馬の背・隅田盛で囲まれるほか、山腹は、火山噴出物で覆われる地形輪廻の原地形(初期段階)を見せる。山頂直下からガリ侵食が始まり、一部で深いV字谷を形成し始める途上にある。山麓には、堰止湖である大沼、小沼などの湖沼や湿地など豊かな自然環境が形成され、一帯は1958年(昭和33年)7月1日に大沼国定公園に指定された。山麓一帯は函館港の開港後の明治時代からリゾート地として親しまれていて、小松宮と有栖川宮の皇族やドイツやイタリアの皇族が訪問している。明治14年には、皇太子時代の大正天皇が大沼を訪問することにより、いっそうこの地が有名になった。1915年(大正4年)には北海道駒ヶ岳を望む大沼の風景が新日本三景に選定された。七飯町の大沼方面からみると、横に長く、なだらかで優美な女性的印象を与えるが、森町方面や鹿部方面からみると一変し、荒々しい山肌と傾斜が目に付く男性的な激しい姿を見せる。大沼方面から見た山容が馬がいなないている姿に似ていることが、山名の由来であると言われている。
立待岬
駒ヶ岳から再び函館市内に戻り、函館山山麓、立待岬を訪れました。近くに函館八幡宮があり、きたついでにお参りしてきました。
今夜は、最後のチャンス函館山の夜景挑戦です。夕方になりロープウエーで山頂に上がります。昨日に次いで2度めの挑戦・・・果たして

夜景を見るなら、日没時刻を要チェック(はこぶらトップページ参照)。日が落ちる少し前に展望台に着いて、昼間の街が、夜の輝きを帯びていく一部始終を眺めるのがおすすめです。ベストタイムは日没約30分後。薄暮れの中、濃紺の空に街の明かりが美しく映え、写真も写しやすい時間です。

th_IMG_9364.JPG.jpg相棒と駒ヶ岳
th_IMG_9372.JPG.jpgth_IMG_9380.JPG.jpgth_IMG_9381.JPG.jpg
th_IMG_9382.JPG.jpgth_IMG_9384.JPG.jpgth_IMG_9385.JPG.jpg

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今回の旅行のメイン

いよいよやってきました。本日のメイン函館山からの夜景。今日は晴れていて絶好の夜景が目に飛び込んできました。夕暮れから午後6時過ぎままでをカメラに収めました。

要塞地帯法(明治32年法律第105号)により、函館山では1898年から要塞建設が始まり、1905年までに山全体に砲台や発電所、観測所など17の施設が建設された(津軽要塞)。この時に山の頂上を削ったため、標高が348mから334mと低くなった。また、函館山が要塞地帯になったことで、山全体が軍事機密となり、地形図から函館山が消えた。函館山の測量はもちろん、一般人の入山や函館山の写真を撮影すること、スケッチをとること、函館山に関する話題も厳しく制限された。
1945年の第二次世界大戦終結で要塞としての存在意義を失った函館山一帯の国有地は、所管する大蔵省(現在の財務省)から函館市へ無償で貸し付けられた。津軽要塞はアメリカ軍によって解体され、翌1946年10月に大蔵省から一時使用の許可を受けた函館市は12月に函館山管理事務所を設置、函館山は一般市民に再び開放された。1948年に函館市はこの一帯326.6haを都市計画法に基づく都市計画緑地「函館山緑地」とした。戦後は夜景の名所として全国的に有名になる。現在、御殿山第一砲台跡はロープウェイ施設や駐車場、展望台、送信所の下に現存しているものの、崩落の危険などがあり立ち入りが禁止されているが、残りの施設跡は一部見学できる。約半世紀にわたって一般人の立ち入りが禁止されてきたために函館山の自然が守られ、今では絶滅寸前といわれているエゾヒキガエルなども函館山に生息している。自然環境を保護するため、函館山の樹木や草花を採ることは市条例によって禁止されている
th_IMG_9389.JPG.jpg夕暮れの夜景

th_IMG_9395.JPG.jpg町の灯りがつききらびやかに夜景が浮き出るth_IMG_9396.JPG.jpg東洋の100万ドル夜景th_IMG_9397.JPG.jpg目を左に転じる



       こうして、函館一人旅は終わりました。
       本来であれば、函館山からの夜景を撮り次第、本州(大間)へ渡る予定でしたが、
       悪天候のため、3連泊で帰ることとなりました。