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2016−8−4夏の札幌風物詩「すすきの花魁道中」



         友人のお嬢さんが、花魁道中のカムロ役で出演するという事で、夏日の暑い日札幌繁華街すすきの
         へお出かけ、初めて見る豪華絢爛な「花魁道中」を初めて目にする事が出来ました。

         お昼過ぎにJRで札幌へ、古くからの友人が大通り8丁目のビアガーデンで待っていてくれ、1年ぶり
         の再会に冷たい生ビールで乾杯・・・殊の外ビールが美味い。

         花魁道中は夜の8時から、撮影に適した場所の下見に6時頃には出発地点に到着し、ポイントを押さ
         えたものの、初めての撮影に流れが一向に把握できない。そこは持ち前の「適当主義」あたりばった
         りで行こうと、会場で待つこと1時間少々、記念撮影のため、花魁たちが揃って出て来ました。いよ
         いよ「花魁道中」の始まりです。

th_VB3A0186.jpg出発前に記念撮影するスタッフ

花魁道中

花魁(おいらん)は、吉原遊廓の遊女で位の高い者のことをいう。18世紀中頃、吉原の禿(かむろ)や新造などの妹分が姉女郎を「おいらん」と呼んだことから転じて上位の吉原遊女を指す言葉となった。「おいらん」の語源については、妹分たちが「おいらの所の姉さん」と呼んだことから来ているなどの諸説がある。 江戸時代、京や大坂では最高位の遊女のことは「太夫」と呼んだ吉原に遊郭ができた当初には、少数ではあるが江戸にも太夫がおり、その数は万治元年(1658年)の『吉原細見』によれば、太夫3人であった。またその下位の遊女として格子67人、局365人、散茶女郎669人、次女郎1004人がいた。江戸時代後期の安永4年(1775年)になると、吉原細見には散茶50人(内、呼出し8人)、座敷持357人(内、呼出し5人)、部屋持534人など(総計2021人)となっている。
別書によると、寛永20年(1643年)に18名いた吉原の太夫は、延享元年(1744年)には5名に、寛延4年(1751年)には1名に減り、宝暦(1751-1763年)の終わりごろには消滅した。
花魁は引手茶屋を通して「呼び出し」をしなければならなかった。呼び出された花魁が禿や振袖新造を従えて遊女屋と揚屋・引手茶屋の間を行き来することを滑り道中(後に花魁道中)と呼んだ。
花魁には教養も必要とされ、花魁候補の女性は幼少の頃から禿として徹底的に古典や書道、茶道、和歌、箏、三味線、囲碁などの教養、芸事を仕込まれていた。
花魁を揚げるには莫大な資金が必要であり、一般庶民には手が出せないものであった(花魁の側も禿や新造を従え、自分の座敷を維持するために多額の費用を要した)。人気の花魁は『遊女評判記』などの文学作品に採り上げられたり、浮世絵に描かれることもあった。浮世絵に描かれている花魁は、実際には付けるのが不可能なくらい多くのかんざしを付けて、とても豪華な姿で描かれている。

花魁道中

ご新造さんが4人揃いました。あとはおかみさんと太夫が揃えば撮影開始

15-16歳の遊女見習い。禿はこの年頃になると姉貴分の遊女の働きかけで振袖新造になる。多忙な花魁の名代として客のもとに呼ばれても床入りはしない。しかし、稀にはひそかに客を取るものもいた。その代金は「つきだし」(花魁としてデビューし、水揚げを迎える日)の際の費用の足しとされた。振袖新造となるものは格の高い花魁となる将来が約束されたものである。

th_VB3A0205.jpgご新造さんが揃いました

花魁道中

イベントがいよいよ幕開け。

役者が揃いました。今年は、夢千代太夫と佳津乃太夫の二人が歩きます。

夢千代太夫・佳津乃太夫

すすきの祭りの歴史

昭和40年(1965年)8月、第1回の 薄野祭(現すすきの祭り)が開催された。実際には、昭和26年7月に最初の薄野祭が行われたが、3年で立ち消えになった。 昭和40年の復活は第4回目となるが、なぜか第1回とし、以降継承して第49回を迎える。昭和40年春、札幌観光協会が「従来の夏祭りは、大通りの広場で盆踊りや歌謡コンクールを行う程度で空疎だ。いっそ、狸小路の狸祭り、定山渓の河童祭り、それに薄野祭りを加え、連合的な規模の大サマーフェスティバルたらしめたら」とのアイディアを出し、この発想から復活した。 この祭りでは、「すすきの小唄」「すすきの音頭」が発表され、ミス薄野コンテスト、のど自慢大会、ビール早飲み大会などが行われた。 祭りは、実行委員会を結成し会長職も持ち回りとしていたが、第12回の後「それでは大変だ」との声が出た。翌53年2月頃、薄野ビルヂング協会、社交飲食環境協同組合、豊水連合町内会などの幹部が参集、「すすきの観光協会」を設立し、祭りを同協会の主催事業とすることを決め、同年6月協会がスタートした。
初日に行われるメインイベント。第20回(昭和59年)に、記念行事として東京浅草から花魁役等9名を招き「花魁道中」を披露したところ予想以上の人気となり、翌年(昭和60年)から恒例の出し物となった。花魁は公募により2名が選ばれ「夢千代大夫」「佳津乃大夫」と命名された。

th_VB3A0215.jpgいよいよ花魁が出て来ました
th_VB3A0211.jpgth_VB3A0222.jpgth_VB3A0231.jpg
th_VB3A0234.jpgth_VB3A0248.jpgth_VB3A0265.jpg

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花魁道中

いよいよ花魁道中が始まりました

2016年の花魁役は、柴田楓佳さん(21歳)と、小川由貴さん(27歳)。
お二方とも、綺麗な方で、可憐で可愛らしい女性です。

夢千代太夫

今回の夢千代太夫は、柴田楓佳さん(21歳)の学生さんです。
8の字を描いて、約400mを1時間半かけてゆっくり進みます。高下駄の高さは、約30cm、身につけている衣装は30kgもあるそうです。
一人の太夫におかみさん、旦那さん、新造さん二人、カムロが二人つき、総勢30人くらいが一人の太夫と歩きます。
おかっぱ頭の赤い服を着た子は、カムロでこの子は、私の知り合いのお嬢さんで「ひなのちゃん」です。去年に引き続き2回目のカムロ役です。

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th_VB3A0309.jpgth_VB3A0310.jpgth_VB3A0311.jpg
th_VB3A0324.jpgth_VB3A0328.jpgth_VB3A0354.jpg

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花魁道中

写真撮影にあたって、ポイントを3点に絞り花魁道中を最後の地点まで追いかけました。まず1点目は出発地点の豊川稲荷前、途中の休憩地点付近の1箇所、最後は終点お披露目地点のステージ付近。しかし、これが殊の外場所取りに苦労しました。
観光客は想像を絶するほどの数で、垣根が作られ前に出ることが至難の技、最後には怒られるのを覚悟で厚かましく割り込みましたが、次回からは脚立の準備も必要かと・・・

th_VB3A0370.jpg夢千代太夫
th_VB3A0382.jpgひなのちゃんth_VB3A0406.jpg夢千代太夫 th_VB3A0387.jpg余裕のひなのちゃん

佳津乃太夫

今年の佳津乃太夫は、札幌市の小川由貴さん(27歳・無職)でした。紫の色艶やかな着物で、とても綺麗な方でした。重さ30kgの着物を着て、この暑さの中、途中気分を悪くしましたが、休憩した後、再び元気に最後まで務めを果たしました。

th_VB3A0408.jpg佳津乃太夫
th_VB3A0552.jpgひなのちゃんお疲れ様でした。th_VB3A0412.jpg艶やかです。th_VB3A0419.jpg気分を悪くした時、周りから「頑張れ」の声が飛ぶ


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ようやく最終地点に到着しました。 佳津乃太夫も到着 お披露目です お披露目


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          夏の札幌風物詩「すすきの花魁道中」は、9時30分無事終了しました。
          大変な人出と暑さの中で、汗だくなりながらも次回も絶対に来ようと心に決め札幌を後にしました。
          このイベントは、本当に豪華絢爛。もっと大きなイベントになると思います。
          それにしても暑い中、太夫は大変だったと思います、関係者の皆さんお疲れ様でした。
          そして、ご苦労様でした。