夏・稚内
ひょんなことから3日間の連休が転がり込んできた。
どこに行こうか思案していたが、この間の天候はあまり良く無く、目当てにしていた道東・道南は曇り・雨の予報で、晴れの予報は稚内方面の道北のみ、それも31日は全道的に崩れ模様。それではと稚内に行き先を決め、29日6時には自宅を出発、オロロン街道を一路北上した。
オロロン街道を進む
サロベツ原野の日本海側、稚咲内海岸の南部にあり、立地としては主として冬季の風雪除けに設置されているシェルターの南側にあります。利尻礼文サロベツ国立公園内にある休憩施設です。屋上からは、日本海の向こうにそびえ立つ利尻富士や美しい夕日が見られる絶好ビューポイントです。
初夏から夏にかけては「コウホネ」と呼ばれるスイレンに似た花が咲くほか、沼周辺にもハマナスやエゾカンゾウをはじめとする原生花が咲き誇ります。休憩施設の横には、テレビドラマのロケのためにこの地を訪れた俳優・森繁久弥氏の歌碑も建っています。
「浜茄子の 咲きみだれたる サロベツの 砂丘の涯の海に立つ富士」 森繁久弥
稚内に向う途中、北緯45度のモニュメントで写真を撮っていた女性ライダー
いよいよ稚内へ
ノシャップ岬
岬の最北端には稚内灯台があり、晴れた海霧の立たない日には利尻島(利尻富士)、礼文島が望める。灯台の南西よりにある恵山泊漁港公園には「ノシャップ岬の碑」の他、「イルカのモニュメント」が設置されているが、これはイルカが宗谷海峡を通過したという昔話に基づいている[1]。灯台・漁港公園に隣接して稚内市立ノシャップ寒流水族館、青少年科学館、みやげ物店などが居並ぶ。
◎ 稚内駅
日本で最も北にある鉄道駅である(北緯45度24分44秒)。日本国有鉄道(国鉄)時代より、鹿児島県の指宿駅と姉妹駅提携を結んでいる。終日社員配置(駅長配置)駅。駅の入るビル「キタカラ(稚内駅再開発ビル)」にはバスターミナル、道の駅、みなとオアシスも併設され[2]、鉄道・バス・道路・港の交通施設が集約されている。北海道内で鉄道駅と道の駅併設駅は3駅目であり、また、鉄道駅・バスターミナル・道の駅・みなとオアシスの4つが併設されている施設は、全国唯一である。
◎ 利尻山
国土地理院では利尻山(りしりざん)という名称がつけられているほか、「利尻岳」、「利尻富士」、「利尻火山」とも呼ばれる。高山植物が生息し、夏季は多くの登山客が訪れる。
約20万年前から活動を行い、約4万年前頃に現在の形に近い物となった。南山麓で8千~2千年前以前に起きた噴火でマールやスコリア丘を形成して以降、活動を休止し火山活動を示す兆候は無い。活動を休止してからの期間が長いため、山頂部を中心に侵食が著しく進み、火口などの顕著な火山地形は失われている。従って、火山の内部構造を観察できる。
宗谷岬
日本最北端
日本政府が領有権を主張する範囲における最北端の地は、北方領土・択捉島にあるカモイワッカ岬であり、また、現在日本政府の実効支配が及ぶ範囲における最北端の地は、宗谷岬の西北西の沖合い1kmに位置する弁天島という岩礁であるが、宗谷岬が一般人が通常利用する交通手段を用いて到達できる範囲においての日本国領土内の最北端の地であるため、「日本最北端の地」と記された石碑が建てられており、この石碑を目指し多くの観光客が訪れている。このため地理上の特徴として付近には様々な「日本最北端」が存在する。
岬の南方に広がる宗谷丘陵は、全国的に見ても珍しい周氷河地形を肉眼で確認できることから、2004年10月に北海道遺産に選定された[1]。丘陵内にはこの地形を利用した牧場があり、のんびりと放牧されている宗谷黒牛や、風力発電の風車群を見ながら通る道は、稚内市街から宗谷岬を目指す観光ルートの一部として定着している。
◎ 祈りの塔
1983年(昭和58年)9月1日に発生した大韓航空機撃墜事件の慰霊塔。事件三回忌に当たる1985年(昭和60年)9月1日に岬の裏の丘の上に建立。塔の先端は事件の起きた樺太沖の海馬島(モネロン島)を指している。高さは20メートルで、台座の16段の羽は被害者の国籍数、張られた石の数269個は被害者数をそれぞれ意味する。夏になると塔の周り一面にアルメリアの花が咲く。
7月30日
1日早く帰ります
明日から全道的に天候が崩れると情報が入り、急遽1日早く帰ることにしました。朝、港を散策していると出港準備中のヨットを見かけました。年配のご夫婦二人で黙々と出港準備していました。これからどちらに向けていくのでしょうか?こんな旅もいいなと思いながら、船影が見え無くなるまで眺めていました。
稚内公園(氷雪の門)
1963年8月に樺太島民慰霊碑(からふととうみんいれいひ)として本郷新の彫刻により、地元の樺太関係者の手で建立された。 両側に高さ8mの門(望郷の門)があり、中央に2.4mの女性の像がある。 女性の像については、顔は戦争で受けた苦しみを、手のひらを見せているのは樺太も家族も失ったことを、足はその悲しみや苦しさから早く立ち上がることを表しているとされている。樺太で亡くなった全ての日本人が対象であり、第二次世界大戦終戦後のソ連軍の侵攻による樺太内での戦争で亡くなった日本人だけを対象としているわけではない。
◎ 北防波堤
北海道と樺太を結ぶ鉄道連絡船(稚泊連絡船)の桟橋など港湾施設の保護および、桟橋を利用する乗客の便宜のために作られた。建設後、稚内駅からドームの手前まで国鉄の線路を延長し、同駅の構内仮乗降場扱いで「稚内桟橋駅」が開設され、乗客はドーム内を歩いて桟橋に待つ連絡船に乗り込んだという。その後、第二次世界大戦を経て終戦を迎えたことから稚泊連絡船は消滅し、これとともに稚内駅から桟橋駅に続く線路も消滅したが、防波堤としての機能は維持されており、以後も礼文島や利尻島への航路など多くの船が発着する稚内港を守り続けている。
YouTubuにまとめました。