5月3日(火)晴れ
連泊の今日は、バイクを置いて徒歩と日本一安い電車による市内見学。朝の6時にYHを出発、早くも気温
20度を超えてる長崎市内へ
オランダ坂
実は「オランダ坂」は、日本の3大”ガッカリ名所”と呼ばれています。高知の「はりまや橋」、札幌の「時計台」、そしてここ長崎の「オランダ坂」。”がっかり”するのは、その地に”音楽”の影響を受けているのではないでしょうか。
人が持つそれぞれの心の中にある風景や経験が”音楽”と重なって、行ったことのない場所への”あこがれ”を高めていく気がします。東山手洋風住宅群など、異国情緒あふれる東山手に位置しており、近隣には日本で最初の女学校である活水学院・洋風住宅7棟があります。出島に住むオランダ人の影響か、開国後も長崎の人々は東洋人以外を「オランダさん」と呼んでいた為、当時「オランダさんが通る坂」という意味で居留地にある坂はすべてオランダ坂と呼んでいたと考えられています。現在は、主に活水学院下の坂、活水坂、誠孝院(じょうこういん)前の坂がオランダ坂と呼ばれています。
孔子廟
朝早くに訪れた「孔子廟」、まだ時間が早く開館前でしたが、ここは絶対に外せないと時間が来るまで待つこと30分、誰もいないのを幸いにくまなく写真を撮ることができました。美術館だけは撮影禁止で撮れませんでしたが、一番心に残った場所でした。
長崎孔子廟は、1893年(明治26年)に清朝政府と在日華僑が協力して建てたもので、日本で唯一の本格的な中国様式の孔子廟です。中国山東省の曲阜にある総本山なみに、伝統美あふれた儀門や大成殿をはじめ廟宇の随所に中国の歴史と文化、伝統芸術の粋がちりばめられています。殿奥の博物館は、1983年に、中日両国の相互理解と文化交流を目的に新設されたもので、中国国内の博物館が提供する中国国宝級文物を常設展示しています。
孔子廟
『論語』で知られる孔子は、中国の春秋時代の思想家です。今からおよそ2500年ほど前、紀元前552年※魯の国の曲阜郊外(現山東省曲阜市)に生まれました。孔子の時代は、周王朝が崩れ、諸侯が対立抗争した動乱期でした。
孔子は魯の定公に召されて要職にも就きましたが、その後職を退き諸国を歴遊。14年後に祖国の魯に帰り、弟子の教育と研究に専念しました。紀元前479年没す。74歳。
長崎孔子廟のルーツは、約370年前、向井元升の長崎聖堂にはじまります。明治になり長崎聖堂が廃止となったので、長崎の華僑が中国清政府と協力して建立したのが、今日の長崎孔子廟です。
元来、孔子廟とは、孔子の遺品を納め祀ったのが始まりで、明治26年(1893)中国清朝政府と華僑によって建造されました。琉璃瓦・青白石製欄干・龍紋様の御道石・孔子像、72賢人石像などはすべて中国から取り寄せられたものです。併設の中国歴代博物館は、2階には北京故宮博物院提供の宮廷文化財を、3階には中国歴史博物館提供の出土文化財を一堂に展覧しています。
信徒の発見と大浦天主堂
建立まもない天主堂は「フランス寺」と呼ばれ、美しさとものめずらしさで付近の住民たちが多数見物に訪れていた。プティジャン神父には今でも何処かでカトリック教徒が密かに信仰を伝えているのではないかというわずかな期待があった。
1865年3月17日(元治2年2月12日)、浦上(長崎市)の住民十数名が天主堂を訪れた。そのうちの4、50歳くらいの女性がひとり、祈っていたプティジャンに近づき、「私共は神父様と同じ心であります」(宗旨が同じです)とささやき、自分たちがカトリック教徒であることを告白した (この女性の名は、イザベリナ杉本百合だったと言われている)。彼らは聖母像があること、神父が独身であることから間違いなくカトリックの教会であると確信し、自分たちが迫害に耐えながらカトリックの信仰を代々守り続けてきたいわゆる隠れキリシタンである事実を話し、プティジャン神父を喜ばせた。その後、プティジャン神父は密かに浦上や五島などに布教を兼ねて隠れた信者の発見に努め、浦上だけでなく長崎周辺の各地で多くのカトリック教徒が秘密裏に信仰を守り続けていたことがわかった。この「信徒発見」のニュースはやがて当時の教皇ピオ9世のもとにもたらされた。教皇は感激して、これを「東洋の奇蹟」と呼んだという。この日は現在カトリック教会では任意の記念日(祝日)となっている。
大浦天主堂
今日の走行 0km 歩いた距離 約25km