ツーリング日記

日光・福島一人旅

「今が旬!」「今が青春!」、
55歳にして輝くリターンライダー


 

17歳で免許を取りアルバイトで乗ったホンダ「ベンリー」が単車初乗り、その後スズキT250でライダーデビュー。24歳で大型自動車免許取得と同時に4輪に鞍替え、以来30年バイクとは疎遠になってしまった。が、立ち寄ったバイク屋で昔を思い出し、54歳を目前で返り咲きを果たす。


  
バイク:ホンダCB750FU
日 程:15.10.11〜17日(6泊7日)
走行距離:約1102Km



期間1日目 10月11日(土)晴れ 
      

まだ、寝静まっている自宅前で点検を済ませ、アイドリングをしながら出発前のスナップ写真を撮る。さぁー出発05:30自宅を出る。朝露にぬれるR275号線を一路南へ走らせること2時間、フェリー乗り場小樽港に到着、途中コンビニで腹ごしらえしたが、少し遅めの朝食にとコンビニに駆け込む。フェリーでの食料とGSを補充、10:30分の出発を待つ。いつもながら、出発の時は心が弾む。天気は出発を喜んでくれているように、久しぶりのいい天気。いやが上にもテンションが上がる。定刻どおり小樽を出港。明日の朝までしばし船上の人となる。船内でくつろぎながら群馬に帰る 同室のライダーと情報交換。やはり北海道の寒さに参っていたようだ。今日は打って変わったように暖かく、海は穏やかである。デッキにでると離れていく奥尻島や道南方面の島影が見える。4月に渡島半島を走ったことが重なり思いを寄せる。夕日が奥尻島沖に落ちるように沈んでいく。声が出ないほど綺麗だ。デッキの上でカップルが肩を寄せ合い、夕日にみいっている。絵になる一瞬である。お邪魔虫は早々に退散、船旅はなぜか気持ちがセンチになる。

        
              奥尻島付近に沈む夕陽                     フェリーの船上で

     

軽く入浴を済ませ、持ち込んだ缶ビールを片手に、ツーリングの無事を祈って一人杯をあげながら明日からの、まだ見ぬ土地に思いを寄せた。21:30頃、新潟を出港したフェリーと汽笛を交わしながらすれ違う。夜の暗い海にひときわ輝く宝石をちりばめたようなフェリーがとても綺麗だった。  ロマンチックこの上ない。


 
      今日の走行キロ 約 112 Km。11時就寝。



2日目 10月12日(日)

      

05:30無事、新潟港に到着。昨日の天候は何処へ行ったやら、今にもポツポツと落ちてきそうな空を見ながら、初めて目にする新潟市内を走る。標識が見あたらない。どの道を行けばいいのか戸惑う。フェリーで同室だった群馬へかえるライダーの後ろを追いかけて走る。なんとか標識のある大きな道路に出た。地図で確認すると国道8号線である。このまま沼田に向かって南下する。朝が早かったせいかお腹が減ってきたが、「へぎソバ」で有名な小千谷でソバをと思っっていた。しかし、この時間帯では店は閉まっている可能性が高い。まあぁ、何とかなるだろうと小千谷を目指す。

        
          小千谷の「ヘギソバ」わたや支店にて                     本店

08:00頃お目当ての支店に到着。悪い予感どおり開店までは2時間以上もある。せっかく来たのにこのまま帰るのは残念。何とか、お土産用にでも手に入らないかと、近くの本店に向かう。運よく、店の入り口が開いている。早速、訳を話しお土産用を送ってもらうことにした。急にお腹がすいてきて、近くのコンビニでおにぎりとお茶で遅い朝食を済ませる。 新潟を出る頃からパラパラと降っていた雨が勢いを増し、湯沢付近ではとうとう大降りになってきた。カッパを着込んでのツーリング。初日から雨にやられた。茂倉岳、一ノ倉岳そして谷川岳と2000m級の山々は雄大で見る者を圧倒した。長い長い清水トンネルを抜けると沼田はもう目の前である。

      

        

     

トンネルを抜けると雨があがり、ひと山超えると天気も気温も違う。天候が回復してきた。このまま今日一日天気がもってほしい。と願いつつ沼田市内でGSを補給し、ロマンチック街道を快調に進み、金精峠を通過。いよい日光である。

 

        

     

素晴らしい紅葉のトンネルを通りながら、戦場ヶ原へ到着。沢山の観光客が訪れており大型バスがひっきりなしに上がってくる。戦場ヶ原を過ぎたあたりで車を止めて、記念撮影。竜頭滝あたりから車が混雑し前に進まなくなった。すごい渋滞だ。紅葉シーズンと連休のまっただ中。この時期では当たり前らしい。北海道では経験のない渋滞だ。すり抜けようかとも考えたが、「札幌ナンバー」を背負って、「北海道のよそ者」と言われそうで、妙に意識して前に行くことができなかった。根が馬鹿真面目なのか、ジット2時間、我慢の子でした。何台かのバイクが私がいるのを見てちょっと躊躇してから、遠慮しながら横をすり抜けて行きました。それにしても2時間の渋滞は異常でした。バイパスを通せば・・・とつい思ってしまう程でした。おかげで予定していた「華厳の滝」や「中禅寺湖」周辺の散策はできずじまい。早々に通過し、イロハ坂を下りる。これでは写真を撮ることもかなわず、なにやら渋滞を経験しに来たみたいになってしまった。今夜の宿である大谷川YHにチェックインしてから、夕飯を兼ね近くの商店街で食事と小物の土産を購入し、明日朝早くもう一度イロハ坂を登り中禅寺湖周辺を散策しようと決め、早めに宿に帰り朝を待った。

 

      今日の走行 約 312 Km


3日目 10月13日(月)曇り

      

6時30分 宿泊先を出発、早朝の肌寒い日光市内を通過し、昨日来た道を中禅寺湖に向かって、ひた走る、7時前だというのに、もう県外のナンバーを付けた車が、いろは坂を上っている。昨日見れなかった分を取り戻すかのように、自然と先を急ぐ。一方通行の上り車線で、のろのろと走る四つ車を横目に見ながら、右側を一気に突っ切る。バイクの本領発揮イロハ坂であった。あっという間に明智平に到着。もう、かなりの観光客が、カメラ片手に写真に収めている。負けじとカメラに素晴らしい景色を収める

        

      

上りが第2いろは坂、下りが第1いろは坂を利用する。カーブごとに「いろは……」 の文字が順に表示されている急坂である。古くは男体山や中禅寺への登拝者が通っていた道であった。明治初期まで奥日光は女人牛馬禁制-にょにんぎゅうばきせい-で、女性や牛馬は坂を上れなかった。そのため上り口は「馬返-うまがえし-」と呼ばれ、女性が男体山を拝んで引き返した場所には「女人堂-にょにんどう-」が残っている。また、ほぼ中間点には休憩所「中ノ茶屋-なかのちゃや-」の跡があり、磁力があるといわれる巨石「磁石石-じしゃくいし-」も残っている。いろは坂と呼ばれるようになったのは、昭和初期である。カーブが48か所あることから、ロープウェイのガイドアナウンスでこう呼ばれ始めた。そして、昭和29(1954)年に道路が改修され、ほぼ現在の形の第1いろは坂が完成してカーブは30か所に。さらに昭和40(1965)年には、交通量の増加にともない上り専用の第2いろは坂(2車線あり一般走行が右側通行であるところが珍しい)も完成。カーブは50か所に増えるが、現在では第1のカーブを2か所減らし、きれいに「いろは……」が当てはまる状態に戻っている。


         
          日光華厳の滝                               男体山

      

日光には四十八滝といわれるくらい滝が多いが、最も有名なのが華厳ノ滝である。高さ97メートルをほぼ一気に落下する豪快さと、自然が作り出す華麗な造形美の両方をあわせ持つ。和歌山県の那智ノ滝-なちのたき-、茨城県の袋田ノ滝-ふくろだのたき-とともに「日本の三大名瀑-めいばく-」とも呼ばれる。名称は涅槃ノ滝-ねはんのたき-、般若ノ滝-はんにゃのたき-などと一緒に仏典の「釈迦-しゃか-の五時教-ごじきょう-」から名づけられたらしい。

        

      

家康公が望んだ「小さな堂」は、やがて家康公を敬愛する3代将軍家光公によって、いま見るような絢爛豪華-な「平和のシンボル」に生まれ変わる。現存する建物のほとんどは、「寛永の大造替」で建て替えられたものだ。造替の総奉行・秋元但馬守が幕府に提出した収支報告書『日光山東照大権現様御造営御目録』(通称『御造営帳』)によると、総工費は金56万8000両、銀100貫匁、米1000石。今の400億円に相当する。使った材木が14万本、工期は1年5か月、延ベ454万人が携わった。35棟を建て替え・新築した大工事は寛永13(1636)年に完成して今に至る。

          
                       「見ザル、言わザル、聞かザル」。

         

    

陽明門の名称は、宮中(現・京都御所)十二門のうちの東の正門が陽明門で、その名をいただいたと伝えられる。江戸時代初期の彫刻・錺金具・彩色といった工芸・装飾技術のすべてが陽明門に集約され、その出来栄えは一日中ながめていてもあきないので日暮らし門とも呼ばれる。 とりわけ見事なのが、500を越える彫刻のかずかずだ

        

      

日光をあとにし、福島に向かう。途中、大川羽鳥県立公園、大川ラインの一番の景勝地 なんと、百万年の歳月をかけて、浸食と風化を繰り返し見事な景観を創りました。初夏、藤の花と白い岩肌の織りなす眺めは、まさに一幅の名画となっております。へつりとはこの地方の方言で危険な崖を意味します

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湯野上温泉駅

     

茅葺(かやぶ)き屋根が周囲の音を吸い込んでいく。そんな気がするほどの静けさだった。入り口の引き戸を閉じると、パチパチと薪(まき)がはねる音が小さく耳に届く。さほど広くない待合室の片隅には囲炉裏があるのだ。公共の露天風呂がある渓谷沿いの温泉街まで1キロ。周囲には普通の住宅や商店が並ぶ。その分、駅の懐かしい風情が一層目立つ。

 

        

      喜多方駅について先ず最初にラーメンのはしご。人気の「まこと食堂」

        
                           「まこと食堂」の醤油ラーメンとお店

      

蔵とともに、全国に喜多方の名を響かせるのが、名物「喜多方ラーメン」。 市内には、120軒以上ものラーメンの店があり、腕と味を競い合います。 その魅力は、何といっても、程よくゆであげたコシのある太メンとコクのあるスープ。 店主それぞれの趣向も数々あれど、酒どころの名声を集める喜多方ならではの水のうまさが生きています

      今日の走行キロ 約 188 Km



4日目 10月14日(火)晴れ

      昨日宿泊した会津のYHは落ち着いた雰囲気の中で、各地から来られた旅人がとても良い
      雰囲気で楽しんでいました。1泊の予定を延ばし、今日は福島近辺を散策に・・・・
      

        
                 昭和の森にて                       五色沼(毘沙門沼)      

     

標高1819メートルの磐梯山は明治21年(1888年)に大噴火を起こし周辺に大きな被害をもたらしました。 裏磐梯高原は、その噴火によってできた大小約300の湖沼群が点在する標高約800メートルの美しい高原です。湖沼群のうち桧原湖、小野川湖、秋元湖にはさまれて点在する大小40あまりの湖沼群を総称して五色沼と言います。 そして、その中でも五色沼自然探勝路添いの10数ヶ所の沼をめぐるコースが裏磐梯の観光名所として人気があります。

        
      

     

宮古には農家が34軒ほどあり、そのうち13軒が昔ながらの民家の座敷を利用してそば料理を提供している。この蕎麦が食べたい一心で山深い「蕎麦の故郷」宮古に行ってきました。宮古そばは、そばの実の6〜7割程度の粉を用いてつなぎは使わず、そば粉だけで手打ちしたもので、しかもそばは白く、歯ごたえのあるツルンとしたのど越しが特長だ。宮古でしか食べられないという”水そば”。これは湧き水で食べるもので、他ではどうしても味わえない」味でした。蕎麦が出てくる前に定食のようなお膳に薬味が・・・・ この日はここのおじいちゃんが打ったという蕎麦でした。水蕎麦で本当の蕎麦の味が・・・・久しぶりで蕎麦を堪能!

      今日の走行キロ 約 150 km


5日目 10月15日(水)晴れ一時雨
      

朝、新潟へ出発する前にもう一度、喜多方しないに出掛け「まこと食堂で」ラーメンを食べる。朝からラーメンはちょっと?と思ったが、なんとスムーズに胃袋に収まってしまった。今日は新潟までの短い距離なので、R49号をゆっくり走る

 

        

      

午後、早めにに新潟に着き予約していた旅館に荷物をおろし、早速新潟市内の散策に出掛けた。歩いて、駅を中心に見て回り、夕方食事を兼ね繁華街で、米dころの銘酒を頂きました。新潟で訪れたこの店の女将さんは、実家が函館ともことで、話が弾み、調子に乗ってつい、深酒となってしまいました。とうてい歩いては帰れず、タクシーで旅館まで送り届けられました。日光・福島一人旅の最後を飾るにふさわしい夜でした。

      本日の走行キロ 110 約 km


6日目 10月16日(木)晴れ

      

1030分 新潟港で乗船、明日の朝には小樽に着きます。こうして、6泊7日の旅は終わりました。次の春には何処に行こうか?気持ちは次の旅に向かっていました。フェリ−の中では、おきまりの 風呂に入ってはビールを頂き、旅の思い出に浸りました。



      今日の走行キロ 0 km
      カンビール6本中5本消化


7日目 10月17日(金)晴れ
      

定刻0530小樽港到着、時間があり札幌で諸用を済ませ、帰宅。荷物の片づけやらで1日がすぎ、写真の整理に追われる。


      今日の走行キロ 130 km

      全走行キロ 約 1102 km

                        

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