昨日(4月29日)と打って変わって、青空が広がる絶好な観光日和。重いカメラバックを背負い、手に入れた観光案内図を頼りに、徒歩で出発。
四条河原町を経て
朝食を簡単に済ませ、はやる気持ちを抑えて街へ繰り出した。昨日の夜に眺めた中華料理店、店の前の置物が珍しい。
山東出身の王澤文が大正三年(1914年)頃、寺町に麺・鰻頭・炒飯など簡単な中国料理を出す店を開きました。やがて、三人の友人と共に三国定の記述にある『桃園の誓い』の故事から「桃園亭」と命名したそうです。
歌舞伎の発祥地「南座」
午前中は、昨夜に廻ったところに行き、最終的に清水寺を目指します。歌舞伎発祥の地に今も残る、元和年間(1615~1624年)に官許された、日本最古の歴史と伝統を持つ劇場。平成8年(1996年)には登録有形文化財(建造物)に認定され、「吉例顔見世興行」をはじめとする歌舞伎や上方喜劇、コンサートなど幅広い公演を行っている。
建仁寺
建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山で、1202年(建仁2年)に臨済宗を日本に伝えたとされる明庵栄西禅師(みょうあんえいさい、ようさいとも)を開山として建立されました。当時の元号に由来して「建仁」を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称しました。鎌倉幕府2代将軍であった源頼家が寄進し、伽藍は宋(当時の中国)にある百丈山を真似て作られたといいます。京都での臨済宗の拠点として利用されていましたが、1246年(寛元4年)と1247年(寛元5年)、1256年(建長8年)に火災にあい、境内は焼失し荒廃してしまいました。1258年(正嘉元年)に東福寺開山の円爾(聖一国師)が仏殿などを復興し、翌年の1259年(正元元年)には宋から渡来した建長寺開山の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺。創建当初は、天台宗、密教(真言宗)、禅の三宗兼学だった建仁寺を、禅の作法などを修行する本格的な禅宗道場としました。
夏の風物詩「川床」
川床戦乱の後、豊臣秀吉の三条、五条橋の架け替えなどを経て、鴨川の河原は見世物や物売りで賑わいます。それにともない、富裕な商人が見物席を設けたり、茶店ができたりするように。これが納涼床の始まりです。江戸時代に入ると石垣や堤が整備され、付近に花街も形成され、歓楽街になりました。祇園祭の神輿洗いでは見物客で大変賑わったといいます。江戸中期には約400軒の茶屋が床机の数を定めるなど、組織化も進んでいたようです。当時の床は浅瀬に床机を置いたり、張り出し式や鴨川の砂洲に床机を並べたもので「河原の涼み」と呼ばれました。
鴨川
鴨川鴨川は、桟敷ケ岳付近を源とし桂川の合流点に至るまで京都市内の南北を流れる約23kmの河川です。悠久の歴史の中で千年の都と京文化を育んできた川であり、今も大都市にあって清澄さを保ち、憩いの場として多くの人に親しまれています。
清水寺
「清水の舞台」で有名な、世界遺産「古都京都の文化財」の1つに登録される寺院です。舞台がある本堂以外にも、仁王門、三重塔、音羽の滝などの名所があります。京都を代表する観光地「清水寺」の見どころをご案内します。
約1200年の歴史を誇り、世界遺産にも認定された由緒正しい寺院。 境内には「清水の舞台から飛び降りる」の語源となった本堂や、 三重塔などの国宝、重要文化財が立ち並びます。
清水寺を訪れた際に一番最初に見えるのが、清水寺の正門「仁王門」です。1467〜1477年の戦によって焼失しましたが、16世紀初めに再建され、2003年に解体修理されました。鮮やかな朱色が美しい、堂々たる佇まいの仁王門。門の両端に立つ一対の金剛力士像が、仁王門の迫力に一層拍車をかけています。
夕刻まで、観光を楽しみJR奈良線で京都駅に戻り、市バスでホテルまで戻ってきました。明日は雨の予報、今日と同じようにJR奈良線で10円玉の裏側に描かれている平等院を訪れたい。足は棒のように成っていた。