広島・京都への旅
広島は二度目の訪問、2泊3日で日本三景の一つである宮島(厳島神社)と「戦艦大和」を建造した呉港を訪れました。後半は3泊4日で京都に移動し秋深まる紅葉を眺めてきました。また美味しいものも沢山頂いてきました。
宮島
厳島神社
厳島神社は天照大御神(あまてらすおおみかみ)と素盞鳴尊(すさのおのみこと)が高天原(たかまのはら)で剣玉の御誓(うけい)をされた時に御出現になった神々で、御皇室の安泰や国家鎮護、また海上の守護神として古くから崇信を受けられた。
宮島に御鎮座地を探されるにあたり、この島を治める佐伯鞍職(さえきのくらもと)に神勅が下った。鞍職は大神様が高天原から連れてきた神鴉(ごからす)の先導のもと、御祭神と共に島の浦々を巡り、海水の差し引きする現在地を選んで御社殿を建てたのは、推古天皇御即位の年(593年)であると伝えられる。
その後安芸守となった平清盛(たいらのきよもり)が当社を篤く崇敬し、仁安3年(1168年)に寝殿造の様式を取り入れた御社殿に修造した。清盛の官位が上がるにつれ平家一門のみならず、承安4年(1174年)に、後白河(ごしらかわ)法皇の御幸(ごこう)、治承4年(1180)3月と9月に高倉上皇の御幸(ごこう)があるなど、多くの皇族・貴族が参詣され、都の文化がもたらされた。
厳島神社対する崇敬は、平家から源氏の世になっても変わることなく、又時代が移り室町時代の足利尊氏や義満、戦国時代の大内家、毛利家などからも崇拝された。
松島・天橋立と並び日本三景「安芸の宮島」として知られ、平成8年(1996年)にはユネスコの世界文化遺産に登録されている。
和様と禅宗様が融合されて,みごとな構成をなす五重塔である。室町時代の応永14年(1407)創建と言われ,露盤(ろばん)下品軒覆の鉄板鋳銘から戦国時代の天文2年(1533)に改修されたことがわかる。九輪を鋳造した廿日市鋳物師(いもじ)山田壱岐守の名もあげられている。 |
丁度訪れたときは、引潮の時間帯で大鳥居まで歩いていける頃でした。足元が気になり降りる勇気ありませんでした。
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鹿に関連した商品を土産物店等で販売している一方で、宮島では「鹿は野生動物」であることを強調しており、基本的に観光化はされていない。例えば角切について、奈良の鹿では伝統行事として観光化しているのに対して、宮島で行政担当者が安全対策として行っており公開されていない。 |
早くに訪れたため人通が少なくベストポジションへ |
大聖院
大聖院とは
宮島にある寺院で最も歴史が深いのが、真言宗御室派(総本山仁和寺)の大本山大聖院です。空海が唐より帰朝後宮島に渡り弥山にて修行なされ、西暦806年(大同元年)開基。
皇室との関係深く、鳥羽天皇勅命の祈願道場として、また明治天皇行幸の際の宿泊先に、さらには秀吉が茶会を開いたこともある格式高いお寺です。
大聖院は真言宗御室派の大本山であり、関西屈指の名刹です。鳥羽天皇の勅願道場として、明治天皇が中国地方を御巡幸された際の行在所になるなど歴代皇室との関係も深くあります。明治維新までは十二坊の末寺を有し、厳島神社の別当寺として祭祀を行っていた厳島の総本坊です。仁和寺と当院は本山と末寺というだけでなく、深く関係を持つ。
本堂は鳥羽天皇の勅願道場であり、仁和寺第五世覚性法親王は鳥羽天皇の第五皇子です。治承四年(1180)三月の高倉上皇の御社参について記した土御門内大臣源通親公の「高倉院厳島御幸記」には厳島神社の別当寺といわれる所以が示されている。
弘法大師をはじめ、大師ご勧請の弥山の守護神 三鬼大権現、秀吉が朝鮮出兵の際に護身仏として祈念した波切不動明王や厳島神社の本地仏であった十一面観世音菩薩、七福神など数多くの仏さまを祀ります。弘法大師ゆかりの寺であり、厄除け開運のご利益が大きいことから「日本三大厄除け開運大師」の一つに数えられる霊験あらたかなお寺です。
呉市に向かいます |
広島から約50分通勤電車 |
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