昨年、疲れて廻れなかった「宝筐院・祇王寺・化野念仏寺」にやってきました。明日は北海道に帰る日、今日が最後の観光となります。今回は体力の消耗を抑えるべくレンタル自転車で最短時間で廻っててきました。
宝筐院
レンタルバイクを利用
嵐山えきに直結したレンタル屋さんで自転車を借り、最初に宝筐院にやってきました。
宝筐院は、京都嵯峨野にある臨済宗の寺院です。紅葉の美しさに定評がありテレビ・雑誌・書籍等のメデイアに幾度となく紹介されました。庭園の写真がジグソーパズルやカレンダーに使用されることもよくあり、来るのが楽しみでした。
平安時代に白河天皇の勅願により創建されたと伝えられ、当初善入寺(ぜんにゅうじ)と称していましたが、南北朝時代に夢窓疎石の高弟 黙庵周諭(もくあんしゅうゆ)が再興し、室町幕府二代将軍、足利義詮によって一時観林寺と改名されました。さらに義詮の没後、その院号、宝筐院に因んで現在の寺名に改められました。以後、足利氏歴代の崇敬を得て栄えたが室町幕府の衰亡と共に寺も衰微していきました。
思いのほか奥行きのある境内に、楓(かえで)の木々が続き格別の美しさ。色とりどりの楓と苔のコントラストがなんとも美しく風情がある景色と言えるでしょう。入口から門をくぐり、石畳の道の両脇を紅葉が空を覆い、トンネルを作ります。
楓に包まれた境内参道を進むと、生前敵同士であった室町幕府二代将軍足利義詮の墓と、楠木正成の子正行の首塚が仲良く並んで建っています。これは義詮が正行の人柄を慕い、そばに葬るように遺言したためといわれています。
もじ通り紅葉の美しさと庭園の美しさはなんとも言われぬ景色でした。
祇王寺
平家物語に登場する”非恋の尼寺”祇王寺
平清盛は、祇王という名の白拍子をとても溺愛していたと言われています。その恩恵は、祇王の家族すべてが受けていました。妹は周囲から甘やかされ、母は豪邸を建ててもらい、あらゆる援助をしてもらい、祇王の家族は裕福に暮らしていました。その愛は永遠かと思われていましたが、新しい白拍子が来た際に、祇王がその舞を見る様に進めると、あっという間にその白拍子である仏御前の虜になってしまいます。そこからは、清盛からの援助もなくなり、祇王は自殺まで考えたと言われています。そこで祇王は、妹と母と共に尼になる事を決意します。そこへいずれ私も捨てられるかもしれないと思った仏御前も加わり、念仏を唱えながら今後の幸せを願ったと言われています。その舞台となったのがこの祇王寺ということになります。
まずはその魅力についてご紹介いたします。 祇王寺は、楓(カエデ)と竹林に囲まれていて、紅葉シーズンが到来すると徐々に緑の苔に覆われた苔の庭が、真赤な絨毯を織りなすように赤い紅葉が降り積もる光景へと変貌を遂げます。静寂の中で目にする光景は詫びサビを感じさせます。祇王寺は、嵐山の有名な観光スポットから少し離れたところにあるため、紅葉シーズン以外は、人も少なめで穴がと言えます。
化野念仏寺
歴史
京都市右京区嵯峨鳥居本化野町にある浄土宗の寺院。山号は華西山。本尊は阿弥陀如来。化野は東山の鳥辺野(とりべの)、洛北の蓮台野と並ぶ平安時代以来の墓地であり、風葬の地として知られる。
弘仁2年(811年)、空海が当地に野ざらしになっていた遺骸を埋葬して供養のために千体の石仏を埋め、五智如来の石仏を建てて五智山如来寺を建立したのに始まるとされる。その後、法然が念仏道場を開き、名称も念仏寺となったという。
本尊は阿弥陀如来像(寺伝では湛慶作というが実際の作者は不明)、本堂は江戸時代の正徳2年(1712年)に寂道により再建された。
明治30年代に宗教奉仕団体、福田海(ふくでんかい)の開祖である中山通幽(なかやまつうゆう)師が、埋没していた無縁仏を掘り出し集めた。そしてそれらは釈尊宝塔説法を聴く人々の姿になぞらえて配列、安祀している。その数は約八千体で、石仏と共に発掘される壺や古銭の時代考証によると平安から、鎌倉、室町、江戸の各時代に及ぶ。この無縁仏の霊にローソクをお供えする千灯供養は地蔵盆の夕刻より行われる。石仏や石塔の一処に会して肩を寄せ合う様に並ぶ全景は、空也上人の地蔵和讃にあるように、嬰児が一つ二つと石を積み上げた河原の有様を思わせることから賽の河原にちなんで西院(さい)の河原という。
境内には水子地蔵もあり、地蔵菩薩の縁日には水子供養が行われている。
京都市民の台所「錦市場」
錦の人も知らない錦がある
390メートルの長い市場を歩くことは、400年の長い歴史の道を歩くことでもあります。
錦市場は歴史とアーケードのその長さだけでなく、じつに奥が深い商店街です。
ヨソでは目にできない珍しい食材、京都が育ててきた独特の食文化、専門家だから教えてくれる知識。いろんな錦を楽しんで下さい。
今に伝わる400年の歴史
正式な記録によるものではありませんが、
市場としての起こりは古く平安時代のころ、すでにこのあたりに市が立っていたと推測されています。
時は経ち1615年、江戸幕府が京都に公認した
上の店(かみのたな)、錦の店、六条の店の三店魚問屋(さんたなうおとんや)の一つが錦市場でした。
それが、本格的な魚市場としての錦市場の始まりです。
「京の台所」と称されることの多い錦市場。京野菜、琵琶湖の川魚、鱧、ぐじ、笹カレイ、湯葉、生麩など…。京料理の料亭や割烹だけでなく、おばんざいと言われる京都の家庭料理にも使われる新鮮な野菜、魚など旬の食材が一堂に集まってきます。京都独特の食文化にふれるのは他の場所では味わえない魅力です。お店の人から専門的な知識や食べ方などを聞くのも、楽しみの一つです。年末やお正月になると、前に進めないほどの人で賑うのも京の風物詩になっています。