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常寂光寺


慶長年間(1596〜1614)に大本山本圀寺第16世究竟院日禛上人により開創。本堂は慶長年間に小早川秀秋公の助力を得て、伏見桃山城客殿を移築し造営する。 仁王門は、元和二年(1616)に大本山本圀寺客殿の南門(貞和年間の建立)を移築、仁王像は運慶作と伝えられる。什物に高倉天皇より小督局に下賜された車琴がある。 これは小早川秀秋公より当山に納付されたものである

平安時代より嵯峨野の地は、皇族や貴族の離宮、山荘をかまえる景勝地として有名であった。 特に小倉山、亀岡、嵐山の山麓は、後嵯峨上皇の亀山殿、兼明親王の雄倉殿、藤原定家の小倉山荘の他、 八条院高倉、待賢門院の中納言局、藤原公雄、藤原光経、飛鳥井雅有、覚性法親王や西行法師、涌蓮、向井去来など公家や歌人が好んで別荘や菴を構えた地域です。 後嵯峨上皇が吉野の桜を嵐山に移植してより、嵐山は桜の名所、小倉山は紅葉と鹿の名所として親しまれてきました。

山門が隠れるほどの紅葉

圧倒されるモミジ

仁王門

仁王門像は目と足腰の病にご利益があるとされ、近在の檀信徒がわらじを奉納して病気平癒を祈願されている。なんと綺麗なモミジだろうか、受付を入った途端圧倒される紅葉にため息だ出てしまう。本堂、堂そして多宝塔を巡るも素晴らしい景観だ。

本堂

本堂は、第二世通明院日韶上人(日野大納言輝資の息男)代に小早川秀秋の助力を得て、桃山城客殿を移築して本堂としたもの。江戸期の文献、資料に図示された本堂の屋根は、本瓦葺きの二層屋根となっている。現在の平瓦葺きの屋根は、昭和七年の大修理の時に改修されました。

鐘楼

鐘楼は、寛永十八年 (1642) 当山第四世、光照院日選上人の建立。梵鐘は第二次世界大戦中徴資に遭い、現在の梵鐘は、昭和四十八年に青木一郎博士の音響設計により、古律黄鐘調の新鐘として鋳造されたもの。毎日、正午と夕方五時に所定の数を突いています。

多宝塔
寺伝に、文禄五 (1596) 年日禛上人が、当寺に隠棲して堂舎を建立し、さらに日韶上人が小早川秀秋の助力を得て桃山城客殿を移築して本堂とし、元和二 (1616) 年には本圀寺客殿南門を移して仁王門としたことが見えるから、慶長から元和にかけての頃が、当時の創建期であったらしい



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二尊院

常寂光寺から歩いてすぐに千二百年の時を超えて、美しい景観に包まれた天台宗寺院「二尊院」がある。。百人一首にも詠われた小倉山の麓に広がるこの寺は、紅葉の名所として名高く、四季それぞれの情景は絶景だ。

二尊院を訪れた際に、最初に出会うのが「総門」です。慶長十八年(一六一三)に伏見城にあった薬医門を角倉了以によって移築・寄進されたものです


本堂へと続く門は、天皇の意志を伝えるために派遣される使いの「勅使」が出入りする際に使われていた勅使門。

総門を抜けた先に広がる、真っすぐに伸びた参道は「紅葉の名所」として親しまれています。約百メートルの間にモミジとサクラの木が交互に植えられており、秋は赤や黄の色鮮やかな紅葉のトンネルを魅せてくれます

勅使門

二尊を安置してある本堂。六間取り方丈形式の間口の広い建物は京都市指定文化財。室町時代の応仁の乱(一四六七〜七七)の兵火で諸堂が全焼しますが、永正十八年(一五二一)に三条西実隆が諸国に寄付を求めて再建

私たちが死後いずれかに転生するとされる「天道」「人間道」「修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」という六つの世界。

この角倉了以はこの二尊院の総門を寄進した人物であり、京都の町の発展に欠かせない貢献もされています。

弁天堂

苔と紅葉の名所としても人気!『平家物語』に登場する寺院
竹林と楓にかこまれた茅葺きの庵。平清盛の寵愛を失い21才で尼になったと「平家物語」が伝える白拍子祇王ゆかりのお寺。

赤い紅葉に包まれるように祇王寺の草庵が静かにたたずんでいます。晩秋から初冬にかけて草庵の茅葺きの屋根に散紅葉が積もり、緑の苔に覆われた庭にも散紅葉が積もり赤や黄に彩られた美しい庭が見られます。

京都嵯峨野の小倉山の麓に建つ祇王寺は平清盛の寵愛を失った白拍子の祇王、妹の祇女、祇王の母親刀自(とじ)の三人と、後で一緒になった仏御前が静かに余生を送った平家物語にも登場する悲恋の尼寺です。

朝早くから、保津川沿、祐斎亭、亀山公園を横断して常寂光寺、二尊院を巡り「祇王寺」に着きました。重いカメラバックを担ぎ全て休憩なしの歩き、足がまるでマルタン棒のような感覚、疲れてしまい祇王寺の入り口でギブアップ。化野念仏寺・宝筐院・宝厳院の拝観を諦め、来た道を引き返し嵐山駅から嵐電に乗り一旦ホテルに戻ることにしました。

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